今からは想像も出来ませんが、109万都市仙台も400年前はただの草原だったと言います。
中心部の道路が碁盤の目のように巡らされていることが、その証左。
何も無かったからこそ、規則正しく整然とした街並みを築くことが出来たのです。
【杜の都】
名前の由来をご存知ですか?
青葉通や定禅寺通のけやき並木ではありません。
これらは、第二次世界大戦後に戦災復興事業で築造されたものです。
「杜の都」とは明治時代末期から使われ始めた観光誘客のためのキャッチフレーズです。
当時は「森」の字も使われていたようですが、一体仙台の何処に森があったというのでしょう?
答えは「街の中」。
昔の仙台は、市街地にうっそうと木々の生い茂る、文字通りの森の都だったのです。
当時の写真を見ると、仙台の街全体が台原森林公園のような状態でした。
これらは、武家屋敷に植えられた木々の名残り。
藩祖政宗公は、家臣の家屋敷への植樹を奨励しました。
食用の実が生る木々を植えて、腹の足し家計の足しにせよ、という訳です。
杜の都のルーツは政宗にある、と言えるのではないでしょうか。
【交通の要衝】
仙台に城を構えて政宗がしたことは奥州街道の道筋の変更でした。
当時の街道は仙台のはるか東側を通っていたのです。
そもそも街自体が存在しなかったのですから当たり前のこと。
政宗は、城下町の真ん中を通るように街道を変更しました。
自ずと南北からの物流は新たな街道を通過することとなり、城下町の南北の端にあたる北仙台や長町界隈は物流拠点として賑わいました。
今日、東北の中枢都市として栄える仙台。その礎を築いたのも政宗でした。
岩出山から城を移すにあたり、候補地は石巻など3か所あったという説があります。
学問的には眉唾とのことですが、もしも、他の地が選ばれていたら…
仙台という街そのものが存在しなかったことでしょう。
当時の地名は千代。政宗はこれを仙台に改めました。
藩祖政宗公こそ、
「仙台の生みの親にして名付け親」
まさに、このことでありました。