舌の力

温故知新でまちづくり
写真提供:宮城県観光戦略課

仙台といえば牛タン。

仙台を訪れる方々は、誰もがそう思い浮かべることでしょう。

でも、私が大学生だった昭和50年代においては、「仙台名物」ではなかったのです。

 

この当時の牛タン屋は、太助の他に数店舗が知られており、私自身は、一番町の江陽写真室の裏手にあるお店がお気に入りでした。

他の牛タン屋とは違って、薄切りのものを使っておられ、連日繁盛していたように思います。

そのお店は惜しまれつつも閉店となってしまいましたが、年は取りたくないもので、どうしても店名を思い出すことが出来ません…

【追記2023/12/31】

突然、お店の名前を思い出しました。

たしか「とだて」と言うお店だったと思います。

 

喜助は後発組で、丁度この頃に開業したと思います。

一番町を南に進み、南町通を越えたところにあるビルの地下にありました。今も「発祥の店」として営業しているようです。

牛タンのミンチをあんかけにして豆腐にかけた「たんとうふ」や焼き肉風のタレ味があったりして、他のお店にはないオリジナル感があり、時々通っていました。

今や行列の絶えない閤はその後の開業でしょうか。

当時から評価が高かったように思います。

 

ものの本によると、牛タンに対して「仙台名物」を謳ったのは喜助が最初とされています。

青葉通と東五番丁の南東角に日之出会館という複数の映画館が入居していたビルがあり、そのビルに喜助が2号店を出店。

ビルが解体されてしまった今は、ポツンと駐車場になっています。エデン地区とともに一体的な再開発を期待しているのですが…

その日之出会館に喜助が出店した際、客寄せのために、のぼりだか看板だかに「仙台名物」と謳った、という話です。

そのキャッチを目にしたJRの偉いさんが、新しく建築する駅ビルへの出店を打診した、とも記されていました。

ここら辺、時系列的な出来事としては私の記憶と合致しており、多分間違いのないところだろうと思います。

 

牛タンが真の意味での「仙台名物」となっていくのは、その後の話。

喜助が駅ビルに出店するのと前後して伊達の牛タンなどが登場。

仙台駅の売店で持ち帰り用の牛タンの販売を開始したあたりから、土産物としての定番化が始まったと記憶します。

バブルの頃になると、牛タン屋での行列現象が常態化しました。

私など、「並んでまで食べるものか?」と半ば呆れながら、長蛇の列を眺めていました。

今や飛ぶ鳥を落とす勢いの利休は、泉区の八乙女に1店舗のみあって、知る人ぞ知るという存在でしたが、その後、多店舗展開を図り、今日の隆盛に至ります。

牛タンの他に美味しい刺身や銘酒を用意して、定食を食べたらハイお仕舞い、という従来のモデルを覆したところがポイントでありましょう。

 

私の知る限り、この間、行政における際立ったプロモーションなどはありませんでした。

民間における商業活動の結果として、「仙台名物の牛タン」というブランド化が実現したのです。

何とも有難いお話であり、ふるさと納税の返礼品や観光誘客のキラーアイテムとして積極的に活用を図るが吉と思います。

仙台名物・牛タンは、舌の力であり、民の力でもあるのです。

 

*参考文献

井上英子「仙台牛たん焼き物語」(2001)河北新報総合サービス

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