温故知新と言いますが、自治体職員の方であれば自らが働くその土地のこと、民間企業の方であれば自社の創業以来の歴史について、知っておいて損はないと思います。
今回は、仙台の生みの親、藩祖伊達政宗公についての一稿をお届けします。
政宗の「特命」を受けた支倉常長が帰国して400年ほど。
この慶長遣欧使節とは果たして如何なるものであったのか?つらつらと考えてみました。
【天下統一を狙って…】
NHK大河ドラマの原作でもあった山岡荘八の「伊達政宗」では、徳川家に傾きつつあった天下の流れをひっくり返すべく、スペインの無敵艦隊を呼び寄せんとした政宗の野望が描かれています。
しかし、慶長遣欧使節については海外にかなりの文書が残されていますが、そのいずれにも政宗の軍事的な野心を伺わせる記述はありません。
(仙台市史特別編「慶長遣欧使節」リンクを頑張って読んでみたのです。)
仮に、用心深い政宗が常長に密命を託したとしても、そうした交渉が実際に行われれば、何かしらの痕跡は残ったはずですが…
【主たる目的は通商交渉】
スペイン国王に宛てた親書には、領内での布教の自由や宣教師の派遣、毎年の商船派遣といった内容が記されています。
最初の2項目がスペインに取り入るための名目であることは明白。
スペイン側も先刻ご承知でしたが、キリスト教を仙台藩の領内で広められるというメリットには、それなりに魅力を感じていた様子です。
政宗は、今でいうWIN-WINの関係を模索した、ということですね。
【政宗の真の狙いは…】
サン・ファン号は徳川幕府の許可を得て建造され、使節もその許可の下に派遣されています。
この時期、幕府は既に禁教の方針を固めていましたが、政宗は領内での布教の自由を謳い、通商を求めました。
こんな大それたことを内緒で出来るものではありません。
つまり、幕府は、伊達藩限定での布教を認めた上で使節の派遣を許したのです。
これには、使節派遣の時期が大阪の陣の前で、徳川幕府の絶対的な権力が未だ確立されていなかった、という事情があります。
強者・政宗は、幕府にとって気を遣わざるを得ない存在だったということです。
「自らの軍事的・政治的な地位を利用して、現代の国家戦略特区のようなことを狙う…」
これこそが、政宗の野望だったのではないでしょうか!
もちろん私見です。眉間にしわを寄せて反論されても困ります。