英断の5年

東日本大震災

【2011年8月末】

震災復興計画の策定作業は一つの山場を迎えていました。

計画の検討会議に中間案を提示するスケジュールとなっていたのです。

私は総務企画局の企画業務担当として間接的に関わる立場でしたが、(計画期間は10年だろう…)と考えていました。

当時は、震災がれきの処理を何時までに終えることが出来るのか、といった先ずもってのことすら確かな見通しが得られていない。そんな状況だったのです。

国や県が10年の方針を示していたこともあり、おそらく庁内のほとんどが私と同じ感覚だったのでは、と思います。

 

【市長の決断】

しかし、中間案の素案として検討会議に示された計画期間は5年。

当時の奥山市長の決断でした。

二役との協議に際し、被災された市民の方々のお気持ちを考えると、10年という数字は私の中ではあり得ないことだ、という趣旨のお言葉を耳にした記憶があります。

(あぁ、この方は腹を括ったのだな…)と悟りました。

国による支援の枠組みなど、あらゆる事柄が現在進行形でしたが、5年という数字を組織のトップから示されて全ての市役所職員の目の色が変わったと思いました。

 

【2019年11月末】

東部復興道路の開通式がありました。

震災復興計画策定時には、単に「かさ上げ道路」と呼ばれていた事業です。リンク(仙台市ホームページ)

災害危険区域の指定や防災集団移転、国による大規模圃場整備など、組織横断的な調整をきちんと行わないことには道路の設計はおろか用地買収にすら着手出来ない、極めて困難な取り組みでした。

500人以上の地権者から用地買収を行い、着工してからわずか5年8か月で開通。

目の色が変わったからこその離れ業…と感ずるのは私だけでしょうか。

 

【再び2011年8月末】

開通を祝う市民の方々を眺めつつ、2011年8月末の検討会議を思い出しました。

委員のお一人から、5年間で完了しない事業が含まれているのに計画期間を5年間とするのはいかがなものか、という趣旨のご意見を頂戴した場面です。

オブザーバーの立場で傍聴していた私は、(百も承知の5年計画なのだが…)と心の中で歯噛みしました。

どういった説明を差し上げたらよいか、自分の中でもうまい言葉を思いつかなかったのです。

 

あれから11年。今ならこうご説明を差し上げることでしょう。

「この計画は、一日も早い復旧と復興を目指す、そうした本市の決意をお示ししたものです。

計画期間内に完了できない一部の土木工事を含め、この5年の間に全ての取り組みを可能な限り前へ進めてまいります。」

この間の進捗は皆さんがご承知のとおりです。

 

「英断の5年があればこそ」

 

心の底からそう思います。

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